2026年1月、労働基準法の大改正案が通常国会への提出を見送られました。約40年ぶりの抜本改正として注目されていましたが、高市政権の方針転換により当面は先送りとなったのです。
「法改正がなくなったのなら、とりあえず様子見でいいか」と思われた経営者の方もいるかもしれません。ただ、ここで立ち止まってしまうと、貴重な機会を見逃してしまいかねません。
改正の方向性は既に見えていた
実は、この改正議論は約2年前から厚生労働省の検討会で進められてきました。筆者も過去のコラムで、その方向性を解説しています。
なぜ今、40年ぶりの大改正が必要とされたのか。理由は明確です。
40年前に作られた法律が、現代の働き方に対応できなくなったからです。
テレワークの普及、副業・兼業の拡大、働く人の価値観の多様化。労働時間管理の実態も大きく変わりました。勤務時間外のメールやチャット対応、名ばかり管理職の問題、形骸化した労働者代表制度など、現行法では十分に対応できない課題が山積しています。
加えて深刻なのが、メンタル不調者の増加です。厚生労働省の「過労死等防止対策白書」によれば、精神障害による労災認定件数は近年増加傾向にあります。脳・心臓疾患による労災認定も依然として高い水準です。
メンタル不調の原因は様々ですが、働き方の実態が変化する中で、法制度による保護が追いついていないことは確かです。人口構造の変化と人手不足が進む中、働く人の心身を守る仕組みを整えることが急務となっていました。だからこそ、抜本的な見直しが必要とされていたのです。
予定されていた改正の主な内容
では、具体的にどのような改正が検討されていたのでしょうか。
労働時間の透明化
企業による労働時間情報の開示義務が議論されていました。社内だけでなく、社外にも残業時間や有給取得率を公開する仕組みです。
これにより、残業時間や有給取得率は、求人票や採用活動で「見られる」時代になります。働き手も転職する際、応募先企業の実態を事前に確認できるようになるのです。
企業にとっては「隠せない」時代がやってきます。逆に言えば、きちんと働きやすい環境を整えている企業は、それが競争力になるということです。
柔軟な働き方の実現
フレックスタイム制の柔軟化も検討されていました。現行制度では、すべての日にフレックスを適用する必要がありますが、改正案では「部分フレックス」が可能になります。
たとえば、月・水・金は通常勤務、火・木はフレックスというハイブリッド方式です。テレワークとの組み合わせで、より柔軟な働き方が実現できるようになる予定でした。
健康確保措置の強化
最も重要な論点が、健康確保措置の強化です。
管理監督者への健康確保義務が盛り込まれる予定でした。いわゆる「管理職」は労働時間規制の適用除外ですが、健康確保の措置が不十分だという指摘がありました。管理職が倒れたら、組織は回りません。
勤務間インターバル制度の義務化検討も進んでいました。前日の終業時刻から翌日の始業時刻まで、一定時間の休息を確保する仕組みです。「休日を1日入れる」だけでなく、日々の睡眠・回復時間を制度として保障する発想です。
14日以上の連続勤務禁止も検討されていました。休日が入っているように見えても、実際には長期間連続で働いている状態を防ぐための規制です。
労使コミュニケーションの強化
労働者代表制度の機能強化も議論されていました。現在、多くの中小企業では、労働者代表の選出が形骸化しています。就業規則の変更や36協定の締結時に、会社側が指名した従業員が代表になっているケースも少なくありません。
改正案では、労働者代表の選出プロセスの透明化や、代表が実質的に従業員の意見を集約できる仕組みづくりが検討されていました。本音で話せる労使コミュニケーションの場を制度化しようという発想です。
その他の改正内容
週44時間特例措置の撤廃(小規模事業場10人未満)、副業・兼業者の労働時間管理、有給休暇取得促進なども議論されていました。
法案提出が見送りになった背景
では、なぜこの改正案は見送られたのでしょうか。
高市政権の方針転換
2025年10月、高市早苗首相は上野厚生労働大臣に対し、「心身のケアと働き手の自発的な意思を軸とした、労働時間ルールの柔軟化」という特命を出しました。
これは、従来の「規制強化」から「規制緩和」へのシフトを意味します。
高市首相は総裁選の勝利演説で「ワークライフバランスという言葉を捨てます」と述べ、「働いて、働いて、働いて参ります」と宣言しました。経済成長と労働者保護のバランスをどう取るか。政権の方針転換により、改正の方向性そのものが揺らいだのです。
労使双方の反応
労働側(連合等)は、健康確保の後退を強く懸念しています。一方、経済界からは、柔軟な働き方を評価する声と、規制強化への懸念が同時に出ています。
見送りの本質的な意味
重要なのは、これは単なる先送りではないということです。改正の方向性そのものを再検討する可能性があります。
しかし、ここで考えてほしいのです。働き方改革の流れは止まりません。法改正が見送られたからといって、何もしなくていいわけではないのです。
法改正を待つという「他責思考」の危険性
多くの企業が陥る罠があります。
「法改正されたら対応する」という受け身の姿勢です。「うちは中小企業だから関係ない」という誤解もよく聞きます。「今のままで問題ない」という現状維持バイアスもあるでしょう。
しかし、考えてみてください。
本来、労働時間や休日などのルールは、何のために定めるのでしょうか。
法律の基準をクリアするためではありません。自社の成果を最大化し、持続可能な組織を作るための仕組みです。
労働者の健康と生産性は相反しません。むしろ、健康な状態で働ける環境こそが、高い生産性を生み出します。
P.F.ドラッカーは「成果」と「貢献」を重視しました。働く人が疲弊し、健康を損なった状態では、真の成果は生まれません。
一般的に、中小企業と大企業を比較すると、中小企業の方が離職率は高い傾向にあると言われています。人材獲得競争で不利な立場にある中小企業こそ、働きやすさが競争力になるのです。
実際、例えば有給取得がしやすい職場ほど離職率が低い傾向があることは、多くの人事担当者が経験則として感じているところです。また、長時間働けば成果が出るわけではないことも、多くの経営者が実感していることでしょう。
見送りになった今こそ、やるべきこと
法改正の有無にかかわらず、今からやるべきことがあります。
自社の労働時間の実態を可視化する
まずは「知る」ことから始めることです。
残業時間、有給取得率、勤務間インターバルの実態を把握していますか?データに基づく現状認識がなければ、何も改善できません。まずは測定から始めることが重要です。
たとえば、ある中小企業では、労働時間を可視化したことで、特定の部署に業務が集中していることが判明しました。業務分担を見直した結果、残業時間が削減され、離職率も改善したそうです。また、労働時間の測定をすること自体が、無駄な残業を減らしたという事例もあります。
管理職の働き方を見直す
多くの企業が「管理職=管理監督者=残業代不要」と誤解しています。しかし、管理職と管理監督者は別の概念です。
労働基準法上の管理監督者に該当すれば残業代は不要ですが、会社で管理職と呼ばれている人が全て管理監督者に該当するわけではありません。課長や部長という肩書があっても、実態として経営者と一体的な立場になければ、管理監督者とは認められないのです。
また、たとえ管理監督者であっても、健康確保の観点から労働時間管理は必要です。管理職が倒れたら、組織は回りません。
ある企業では、課長職の一人が過労で倒れたことで、部署全体が機能不全に陥りました。後任が育っておらず、業務の引き継ぎもできない状態でした。組織の要である管理職の健康を守ることは、事業継続そのものに直結するのです。
就業規則と実態の乖離をなくす
「建前」と「本音」のズレが労使トラブルを生みます。
例えば、就業規則では「休憩時間1時間」と定めているのに、電話番や来客対応で実際には休憩が取れていないことはありませんか?育児・介護休業の制度は整備されているのに、実際には誰も取得したことがない、という状態ではないでしょうか?また、副業は就業規則で禁止しているのに、実際には黙認しているケースもあるでしょう。コロナ禍以降、在宅勤務を認めているのに、就業規則に規定がない企業も少なくありません。
こうした制度と実態のズレは、労使トラブルの大きな原因です。実態に合った制度設計をしなければ、いずれ問題が表面化します。
ある会社では、就業規則で「残業は事前申請制」となっていました。しかし実際には、上司が口頭で「この仕事、今日中に終わらせて」と指示し、従業員は事前申請なしで残業していました。会社側は「申請がないから残業ではない」という認識で残業代を払っていませんでしたが、実態は上司の指示による労働です。退職した従業員から労働基準監督署に申告があり、未払い残業代として過去2年分を支払う事態になったのです。
労使コミュニケーションを再構築する
改正案でも議論されていた労働者代表制度の機能強化は、法改正を待つまでもなく、今すぐ取り組むべき課題です。
多くの企業で形骸化している労働者代表制度を、実効性のあるものに見直すことが重要です。従業員が本音で話せる場を作り、一方的な通知ではなく、対話を通じて合意形成を図る。そうしたプロセスが、制度と実態のズレを防ぎ、労使トラブルを未然に防ぐことにつながります。
中小企業ほど、社長と従業員の距離が近いという強みがあります。大企業では難しい、顔の見える対話ができるのです。この強みを活かさない手はありません。
働き方の「目的」を問い直す
最も本質的な問いです。
何のために働くのか。どんな成果を出すために、どう働くべきか。
時間ではなく成果に焦点を合わせることです。
問題の正しい定義が、解決の大部分を占めるとも言われています。「働き方」を見直すのではなく、「何のために、何を成し遂げるために働くのか」を問い直すことが重要です。
あるサービス業の中小企業では、「業務の目的」を全社で見直しました。「なぜこの業務をするのか」「顧客にどんな価値を提供するのか」を従業員全員で議論し、本質的でない業務を思い切って削減しました。結果、従業員の働きがいが向上し、顧客満足度も上がり、業績も改善したのです。
まとめ
法改正の見送りが示す本質
法律は最低ラインを定めるものです。
法律に従うだけでは、優秀な人材は集まりません。これからの時代、「働きやすさ」は競争力そのものです。
求人票に「残業少なめ」と書きながら、実際には長時間労働を強いている企業に、若手は集まりません。口コミサイトで実態はすぐに広がります。
今、行動を起こす意味
見送りは「猶予期間」ではなく「準備期間」です。
「法律が変わるから対応する」という受け身の姿勢ではなく、「自社の成果を最大化するために働き方を見直す」という主体的な取り組みが重要です。
環境や制度のせいにするのではなく、自社でコントロールできることから着手していく。そうした姿勢が、変化の激しい時代には求められます。
ドラッカー教授は「変化はコントロールできない。できるのは変化の先頭に立つことだけである」と言いました。法改正を待つのではなく、自ら働き方を変革する企業が、これからの時代を勝ち抜くのです。
今すぐ始めること
法改正を待つ必要はありません。今すぐ始められることがあります。
労働時間の実態を数字で把握すること。管理職の健康を守る仕組みを作ること。就業規則と実態のズレをなくすこと。従業員との対話の場を設けること。そして、何のために働くのかという目的を、組織全体で問い直すこと。
どれも法改正とは関係なく、今日からでも着手できる取り組みです。そして、これらの取り組みこそが、自社の成果を最大化し、働く人の健康を守り、持続可能な組織を作る土台となります。
「どうせ法改正されるから」と待つのか。「今だからこそ」と動き始めるのか。その選択が、数年後の組織の姿を大きく変えることになるでしょう。
もし、これらの取り組みを進める上で、専門家の視点や実務的なサポートが必要だと感じられたら、私たち社会保険労務士事務所インサイドフィールドにお気軽にご相談ください。労働時間の実態調査、就業規則の診断と改定、管理職の労働時間管理の仕組みづくり、労使コミュニケーションの活性化支援など、中小企業の実情に即した実務的なサポートを提供しています。
法改正の行方に左右されず、自社の成果と働く人の健康が両立する組織づくりを、一緒に進めていきませんか。

